亜人行録Ⅴ(完)
「君は一人の亜人を人間にしようとしていたそうだな」
暗い廊下、僕と老人はある場所へと向かっている。
「……ええ。
僕はそう言いながら、彼女のことを……弄び続けていました」
「そうか」
僕の予想に反して、彼の返答は怒るでもなく悲しむでもなく、ただただあっさりとしたものであった。
「では、君は人間とは何だと思うね?」
「……人間……」
人間とは何だ。
僕がずっと目を背けてきた問い。
答えが見つからない僕は言葉が出なかった。
「私も今の君のように、人間とは何かが解らなかった。
人間とは何かを知る為に、私は数々の人の身体を切り刻んだ」
彼が歩みを進める度にはためく白衣にこびり付いた赤黒い跡。
「しかし、研究を進めれば進める程、人間と亜人は同じ機構である事がわかるばかりだった。
私の研究は、ゲノムレベルにまで至った。
そうして私は遂に、人間を亜人にする因子を発見した」
「何ですって……⁉︎」
亜人化の因子が見つかった、と。
「亜人化の因子、それは心だよ」
心。
心が人間を亜人にするのだと彼は言った。
「そしてもう一つ、このゲノムレベルでの研究で明らかになった事があった。
我々の起源だ」
「我々の……起源……?」
「本来、ヒトという種には心というものがなかった。
彼らのことを、私は純人間と名付けた」
「……⁉︎」
本来の人間には心がなかった、だと。
「純人間は、他の動植物同様に、本能にも似た最も合理的な行動様式によって生きてきた。
生きる上での凡ゆる問題に、自明であるかのように正確に動く生き物だったんだ。
先程死んだ、あの人形のようにな」
「……ヘレナ……」
僕は彼女を人間に思う事ができなかった。
「否、彼女のように人間にプログラムされたりしない分、彼らはより完全だったと言えよう。
本来の人間は、正しく神の似姿さながらの生き物であった。
彼らの行動のそのどれもが、もはや芸術の域に達する程の合理性に貫かれていた。
その何処にも、心というものが介入する余地はなかった。
いや、心と行動が完全に一致していたと言うべきか……」
僕は彼の言葉を吞み込む事ができなかった。
僕はただ唖然とした。
「君は、翼人や河人を筆頭とした生まれつきの純粋な亜人の存在は知っているかね?」
「……ええ」
彼らが生まれつき亜人である事を根拠に、その他多くの亜人を巻き込んで殺している者たちは今でも多くいる。
僕は、生まれつきの亜人に感情らしきものが確認されている事を思い出しハッとする。
「それは有史以前にも遡る遥か昔のことだ。
いや、この出来事があったからこそ、歴史が生まれたと言うべきか。
純人間と亜人達の交配があった。
そうして生まれたのが我々、心を持つ人間だ」
「……では、人間というのは……」
「私はその事実を知って愕然とした。
人間は心を持って当然だと、今までずっと思ってきたからだ」
「……そんな……」
僕はタマミのことを思い出す。
僕が彼女を生に引きとめようとする事も、亜人の所業だというのだろうか。
もう、何もかもを投げ出したくなっていた。
「君、こっちだ」
彼はそう言って、壁の中へと入って行った。
「ホログラム……」
僕は瞬時に理解した。
僕はその立体映像に軽く手を伸ばし、すり抜ける事を確認すると、駆け足で彼を追った。
ホログラムの壁を超え、暗く細い通路を抜けると、壮麗な城の廊下のような空間に出た。
灯りの点いていない廊下は、窓からの月明かりで柔らかく照らされ、そのきめ細かな装飾をもはっきりと見る事ができた。
「……ここは……」
「トッドゥスツール城。
かつてはこのウコーリ州の中心だった場所だ。
今やマレスの後継者を自称するマラパルマの根城と化しているがね」
彼はそう答えながら、尚も歩みを止めない。
僕はその内装に見惚れつつ、彼を追う。そのどこを切り取っても、この州のかつての栄華を誇っているように見えた。
「有史以来、我々と純人間は共存して社会を作ってきた。
純人間と我々との間に、心以外の差異は存在しない。だから我々はその事に全く気がついていなかった。
純人間は、自らに心があるように擬態する術を知っていた。
もしかすると君も、純人間の一人なのかも知れんね」
「な……」
僕は不意に彼を睨んだ。
なぜ僕を疑う。
僕の心が偽りだというのか。
「人類はやがて高度な文明を築き、世界の仕組みを解き明かしてきた。
人類は省力化と自らの幸福という幻想を夢見て、必死で社会を機械化してきた。
人間の周囲の環境の機械化に止まらず、その傾向は人間の内側にも進んでいった。
人間自体が意味に分解される時代に至っても尚、人間は機械化を止めなかった。
全てを機械に委ねていった。
その最たる技術が、電脳化だ。
ニューロン・ネットワークが構築され、人間の全てが、意味に分解される日がもうじきに来るだろう。
そんな中で、自分が何なのかを見失う人間が続出した。
自分には夢がない。
自分には意味がない。
自分が一体何なのかがわからない、と」
「……⁉︎……」
僕は自分の内面をみすかされているようで背筋に悪寒が走った。
「社会がより完全なものとなるにつれて、人間から凡ゆる苦痛を消し去る社会へと近づくにつれて、ストレス耐性をはじめとする人類の免疫力は下降の一途を辿った。
全世界の人々が、狂気に走りやすくなってしまった。
自らの実存を渇望した人間は、敢えて自らを狂気というエラーに落とし込むことで、意味に支配されない確固たる自分を作り出そうとした。
そして、亜人化が蔓延した。
亜人化が全世界で起きることはもはや必然だった」
淡々と語る彼の言葉に、僕は現実味を感じる事ができなかった。
「それまでにも亜人化の症例は世界各地で点々と確認されてはいたが、この爆発的な蔓延はもはや異常だった。
人類は未曾有の危機に陥った。
そこで、我々と共存してきた純人間は、我々を見限る選択をした。
そして、2035年が訪れた」
気がつくと、僕と彼は扉の前に立っていた。
「2035年。
あの災厄は、もはや戦争ではなかった」
「2035年……」
『-2035年という年号は戒めだ』
僕の頭にあのフレーズが過った。
「災厄のときは音もなく訪れた」
彼は扉に付いた、非常に古典的な原理の鍵を解錠してゆく。
「こんな時代になると、このタイプの鍵は電子ロックよりも格段に安全なんだよ」
複雑に絡み合った金属製の仕掛けが、巨大なルービックキューブのように形を変え、精密な絡繰が音を立てる。
「災厄の……とき……?」
『なんとおそろしいことだ!』
僕はとある小説の一節を思い出す。
「2035年。
アレは戦争ではなかった。」
「戦争ではない……?」
「第三次世界大戦なんてなかった。
いや、戦争自体はあった。
純人間と亜人化の因子を持つ人間の戦争だ。
純人間は少数であるにも関わらず、状況の全てを予め計算し尽くし、全てに対策を立てて、徹底的に相手陣を追い込んだ。
心の無い人間の無情で冷酷な計算能力は異常だ。賞賛に値する。
彼らはもはや機械同然に相手陣を圧倒した。
更に彼らは、自らに心があるように装う術を計算し尽くしている。
彼らは巧みに人心を弄び、相手陣内で分裂や内乱を次々に作り上げた。
結果、亜人化の因子を持つ人間は自滅した。
我々に残ったのは世界レベルの混乱。
もはやアレは戦争ですらない。
我々は何と戦っているのかさえわからなかった。
彼らは瞬く間に世界中の首都圏を奪取した。
世界各国の旧首都圏は今や純人間の支配下にある。
我々は踏み込むことはおろか、それを覗くこと、認識することすら不可能だ。
なぜなら、彼らはあの時点で既に、質量を持つ現実拡張技術を制していたからだ」
「質量を持つAR技術……」
つまりそれは、現実そのものを書き換える技術。
「人間は神の似姿とはよく言ったものだ。
純粋な人間は心がない点を除いては非の打ちようがない。
いや心がない事すらも長所の一つとも言えようか。
物理的な閉包性の中ではもはや完全な存在だ。
彼らの中に、認識や善悪など存在しない。楽園のアダムとイヴさながらにな。
そして、我々心を持つ不完全な人間は地下へと追いやられた。」
「……そんな、馬鹿な……」
僕はその場でただ立ち尽くした。
「日本の『ハレルヤ』、ユーラシアの『ダニューバー』、オセアニアの『マッケンジイ』、トメニアの『ツェゲツオウスカ』、大東亜(イースタシア)の『チン=ソウリン』……。
地上政府、全世界統一ブロックは、地下開拓によって我々のその流れを助長した。
地下世界という巨大な檻に閉じ込めて、人間を飼い慣らすためだ。
地上は完全な社会を得た。
不完全な人間は地下に閉じ込められた。
彼らは最後の審判の後の新天地を思ったのだろう。
我々の住む地下世界を地獄だと言った。
インフェルノだよ。
この地下世界は、人間の心という咎を持つ者を収容する地獄だ。
地獄に囚われた我々を救済する技術を手に入れるその日まで……」
「救済……」
救済。
人類の亜人化からの解放。
それは即ち…………。
「結果、地上には今なお続く楽園が生まれた。
争いや痛み、哀しみすら存在しない純粋な人間達の楽園」
僕はその世界を想像して、身体が固まった。
誰もがただ微笑んでいるだけの世界。
不完全な人間の心というものが完全に取り去られた世界。
それが……救済……?
「彼らはもう苦痛を必要としていない。
何故ならば、完全な存在はそれ以上進化する必要が無いからだ」
するとようやく鍵が解け、彼が扉を開く。
扉の向こうに広がっていたのは、巨大なステンドグラスからの月光が照らす礼拝堂であった。
老人は、広間の奥にある祭壇へと向かう。
「だがそれでも尚、心を持つ人間は愚かだった。
亜人狩りだ。
自らの不幸の原因を亜人達に求め、果てのない虐殺が今尚続いている。
もちろん、マラパルマの言う通り、人為的に人間を狂気に陥れて亜人を量産し、私兵にしようとする輩も多くいる。
愚かなことだ。
人間の尊厳など、とうの昔に消え去ってしまった。
どうしようもなく我々は愚かだ」
彼は祭壇の裏側に回り、何かをいじり始める。
「私はそれが堪えられなかった。
だから私は、亜人と人間の研究をしてきた。
そして私は亜人化の原因を突き止めた。
私は亜人を人間に戻す方法を探した」
すると祭壇が、軋む音を立てて動き始める。
「だが世界のどこの国も、亜人を狩ろうとする事を止めなかった。
亜人狩りは巨大なビジネスとなったからだ。
狂気に駆られる人間は不幸な人間が余りにも多い。
邪魔な人間、社会に適合しない人間達を殺す口実を一度手にしたら、誰も手放す者はいなかった。
各国政府はそれを知っていながら、亜人狩りを進めてきた。
私はそれが許せなかった。
だからこそ、各国政府の誰の妨害も受けないように、オノ・センダイと手を組んで電子結界を造った」
からくり箱のように、次々と形を変えてゆく祭壇の向こうで、彼は僕の目を見た。
「彼らは信用できる連中だ。
彼らはいい意味で狂気を飼い慣らしている。
そうだろう、日本人?」
僕の表情が、少しだけ、ようやく緩んだような気がした。
そうこうとしている内に、祭壇だった物は、大きな棺になっていた。
「これだ」
彼はそう言って、棺の横に取り付けられた小さな容器を抜き取る。
「これは……?」
彼はその小さな容器を僕に手渡した。
「純人間化血清。
私の研究の結晶だ」
「純人間化……まさか……」
まさか……、もう既に完成していたというのか。
「その血清を投与した者は、たとえ亜人化した人間であろうと、純粋な人間になる劇薬だ。
既に試験も行っている。
詳しい情報は、その容器に付属させたデータを参照したまえ」
「試験って……」
彼は棺の蓋を開く。
「私の兄だ」
棺の中には、かつての英雄の亡骸が眠っていた。
マレス=サルトゥオーモ。
見事なまでに、綺麗な人間の姿だった。
その肉体に、亜人の要素は一片も無かった。
「兄は私に、世界の全てを教えてくれた」
僕は彼の顔に、ようやく悲しみの感情を見た。
「だが彼は、ある日を境に暴走を始めた。
自身の中にいる狂気に蝕まれていたのだ。
それは、外見ではほとんど目立たないところからの亜人化だった。
兄は外見だけでも繕おうと、必死に耐えてきたに違いない。
亜人化が始まった箇所を、何度も何度も自傷しながら、それでも尚必死に平静を保とうとしていた」
僕は眠れる英雄の顔を覗く。
その顔は、とても安らかに見えた。
「私は兄を人間に戻そうとした。
私は彼に血清を打った。
それが最後の望みだった。
果たして、その血清の効果はあった。
彼は瞬く間に人間の姿を取り戻していった。
しかし、彼の側近であったマラパルマ達は、彼が療養で動けないのをいい事に、英雄の名を借りて横暴を極めた。
そして、兄が復帰しようというそのときに、兄は何者かに暗殺されてしまった。
結果として、ウコーリの暴走は止められなかった」
老人の握る拳は、微かに震えていた。
「こんな筈じゃなかった。
彼に、人間である兄に、私はただもう一度会いたかった。
たったそれだけだった」
僕は言葉が見つからず、俯いて受け取った容器を眺めた。
突然、元来た方向から爆音が飛ぶ。
僕は慌てて、小さな容器を握り締めた。
「三時間だ」
壁が崩れ落ちる音と共に、冷たい鉄の声が、礼拝堂を反響する。
壁面の砕けた粉塵が、僕と老人に咳を強要した。
「おいおい、ルイージ。
ダメじゃあないか。
勝手に彼を解放しちゃ」
岩の神父は恐ろしい速さで、粉塵の舞う中から飛び出し、老人の首を軽々と掴み上げた。
「なあルイージ、つれないなァ。
あの血清が完成していたとどうして俺に言ってくれなかったんだ?
まさか俺を裏切ったなんてことは無いよなァ?」
老人は岩の神父を睨む。
「裏切ったのは……お前達だ」
「何が何だって?」
岩の手は老人をより強く締め上げる。
「お前達に……この技術を……独占なんて……させな……」
「ほう?
そうかよ?」
岩の男は老人を握り潰し、棺の側面にぶつけるように投げた。
老人の血液が、眠れる英雄に降りかかる。
棺の周囲の床に広がる赤が、粉塵と混じり泥状になってゆく。
「気が変わった。
お前達を消し去ってやる。
やはり人間には絶望しかない」
僕が岩の男を直視する間もなく、彼は瞬時に間合いを詰め、僕の頭蓋を掴んだ。
「……ぅあ……ああ」
万力で締め付けられたような激痛が僕の頭を襲う。
「なあ、知っているかマサト君?
裏切りっていうのはな、地獄における最も重い罪だ」
「あああ……」
僕の肢体が宙に浮いた。
激痛で何も考えられない。
「お前にこの絶望がわかるか?」
「ああああああ」
激痛は更に威力を増した。
……痛い。
痛い。
どうしようもなく痛い。
「君も人間に絶望すればいい。
そして亜人になれ」
「あああああああ……」
痛い……痛い……痛い。
頭蓋が軋む音を立て始める。
「ああああああああああああ‼︎」
気がつくと、僕はどこか知らない空間に立っていた。
足の裏で感じるのは、床でも地面でもない。
肉の感触。
僕は屍の海の上にいた。
あの夢だ。
沢山の人が死んでいた。
地を埋め尽くすように転がる死体達の顔は全て、同じ顔をしていた。
沢山の僕の死体が地平線を作っていた。
手に残る血の跡、むせ返るような死臭。胃酸が喉を逆流しようとしていた。
僕はなぜ自分がこの状況に耐えられないのかがわからなかった。
しかし屍の海の上に、彼女はいなかった。
すると、踏みつけていた屍がもぞもぞと動き始める。
周囲を見回すと、屍のその一つ一つが姿を変えてゆく。
屍が、蘇ってゆく。
やめろ。
今までずっと押し殺してきた筈なのに。
やめろ、僕は人間なんだ。
やめろ。
やがて屍達は次々と起き上がり、僕の方へと這い寄って来る。
僕に近づくごとに、それぞれの屍がさまざな種類の亜人へと姿を変えてゆく。
亜人の群れが僕の身体に群がる。
やがて僕の周囲の屍の一つが、僕の首元に噛み付こうとする。
いやだ。
いやだ。
僕は……人間でいたいんだ。
その時、光が全てを掻き消した。
目を焼くような眩い光が、僕を物理現実へと引き戻す。
「閃光手榴弾……⁉︎」
岩の男は僕を放し、目を押さえた。
見えない。
視界の何もかもが見えない。
『降下』
突然、多くの着地音がして、ロボット特有の足音が近づいて来た。
この足音は、どこかで聞き覚えがあった。
まさかこれは、R.U.R.社製の戦闘用ロボットだろうか。
「貴様らァ‼︎」
岩の腕が空振りを繰り返す音に混じって、彼を取り囲む足音。
数回のグロテスクな破壊音がした後、大人しい物音がして、再び声。
『対象の沈黙が完了しました』
僕を保護していたロボットは、僕を優しく持ち上げた。
『目標を確保完了。
直ちに脱出します』
「待って……‼︎」
僕の言葉も虚しく、ロボット達は止まらない。
「ヘレナ……、
ヘレナ……‼︎
ヘレナ‼︎」
あの老人から渡された容器を握り締めたまま、僕は亜人の国を去った。
あの旅からどれだけ経っただろうか。
様々な機関からの取材責めがようやく収まり、やっとの事で静寂を謳歌できるようになった。
僕は現在、療養の為に病床に臥している。
精神的なショックによる後遺症が治るまではここで軟禁が続くのだと。
僕は、あの与太話を信じ過ぎたのかも知れない。
綺麗さっぱり再教育が成されるのはまだ遠そうだ。
僕は、あの旅でボロボロになった自分の手を見る。
……ははは、タマミと一緒かな。
しかし、節々の痛む僕の身体は、一向に亜人化することがなかった。
不意に笑いそうになる僕を、ノックの音が引き止めた。
僕が返事をする間もなく、懐かしい顔の男が入って来た。
「ブスマン先輩……」
「久しぶりだな、鵠君。旅はどうだった?」
「先輩も取材責めに来たんですか?」
僕が嫌味っぽく答えると、先輩は笑った。
「ははは冗談だよ。
俺はお別れを言いに来た」
「え……」
僕は一瞬、自分の聞き違えを疑った。
「まあそんなに遠くに行くわけじゃないんだけどな。
俺、営業部に移動することになったんだ」
僕は一瞬だけ、頭が真っ白になった。
「営業部……、
良かったじゃないですか。
これで昇進も確実ですね!」
僕の中で感情の伴わない言葉が紡がれてゆく。
先輩はそんな僕に冷めた笑みを浮かべた。
「まあな。
専門的な知識を有する人材が営業部にも必要なんだと。
ま、こうして昇進コースに着けるってのは、俺が優秀だからだってな。
最高にヨイショされたぜ全く……」
僕が見る限り、彼は全く嬉しそうではなかった。
「これはその優秀な先輩からのありがたい餞別だ。
受け取れ」
「自分で言ってどうするんですか……」
口では文句を言いつつも、僕は小さなカードを受け取る。
「ネットを彷徨ってたプログラムの塊を偶然見つけてな。
形式が特異であまりにもデリケートだったから、崩壊する前にあるデバイスにサルベージしておいた。
カードに入っているのはそのデバイスの識別コードだ」
僕は受け取ったカードを眺めた。
「さてと、俺はもう行くからな」
「え、ああ先輩」
僕は動けない身体をよじって、部屋を出ようとする彼の方を向いた。
「何だ?」
「ありがとう……ございます」
すると先輩は笑いながら、病室を出て行った。
「じゃあな」
彼の言葉と共に、ドアが閉まった。
そしていつしか、身体が回復しようやく少しずつ動けるようになった頃。
僕は未だにタマミが忘れられなかった。
僕は外出の許可を得て、タマミの収容されている病院に連絡をとる。
僕は彼女に会いたかった。
しかし、最近はずっと面会謝絶が続いていて、会うことが出来ないのだという返答しか返って来なかった。
僕が何度問い質しても、その答えは同じであった。
僕は突然、何故か、どうしようもなく悲しくなった。
その数日後、僕の元に一本の電信が入る。
『タマミは重態だ。
君の願いを叶える。
タマミを人間にしよう。
ノートルダム・ド・ラ・ギャルド・バジリカ病院101号室で待っている』
と。
101号室。
僕は、101号室へと向かった。
「鵠マサト様ですね。それではこちらへ……」
「いや結構。場所はもう覚えてるんで」
あの頃の通りの面会の受け付けを終え、懐かしい足取りを辿った。
このご時世に病院を訪れる人間も珍しく、相も変わらず寂れた空気が僕を迎える。
ノートルダム・ド・ラ・ギャルド・バジリカ病院。
かつての海の街を象徴する壁画に彩られた廊下を歩く。巨大な船舶を思わせる内装は、やはりデウカリオンやノアの箱舟を彷彿とさせた。
ここは箱舟だ。
この箱舟は、神の無慈悲な救済を謳う教会なのだ。
廊下の壁面の一廓にコラージュされた子供達の絵が目に入る。明るい暖色系の色彩ばかりが使われて微笑む人々が描かれていながら、何度見てもやはり、なんとも言えない不安のような感情が滲み出ていた。
子供達はきっと知っているのだ。
慈愛に満ちた神など、この世界に存在しないのだということを。
僕はふと足を止める。
何故僕は彼女を想うのか。
再び邪念が過った。いつだってそうだ。きっとこの廊下が呪われているのだ。きっとそうだ。
これは巡礼だ。
これが僕の祈りの姿だ。
僕は邪念を振り切るように足早に目的の病棟へと向かう。
本棟から隔離された病棟に辿り着いたところで、僕の足が止まった。
「こんにちは、御主人。
お久しぶりですね」
「…………ヘレナ……?」
何故なら、そこにあのデバイス、いや少女が立っていたからだ。
元々の最新型の身体を手に入れることは出来なかったらしい。
急ごしらえだった所為なのか、もしくは先輩の趣味なのか、彼女の身体は少し小さくなっていた。
僕と目線を合わせるなり、彼女はにこやかな顔を見せる。
「ヘレナ……‼︎」
僕は脚を屈めて、彼女を抱き寄せた。
そう、あの識別コードは、彼女の名前だったのだ。
「あんな旅はもうこりごりです、御主人」
「ああ。もうあんな旅はしない」
何故だろう、僕の中から何かが込み上げてきた。
僕は自分が、ロボット相手にこれほど情が移る人間だとは思ってもみなかった。
「因みに、私のことをセクサロイド呼ばわりしたあの男は逮捕されたそうですね」
「はははそうか」
彼女がそんな台詞を口にするとは、開発者である僕は夢にも思わなかったが。
「さて……」
僕は彼女を放し、立ち上がる。
「同行の許可を申請します」
彼女はそう言って、僕に手を伸ばした。
「ここまで来て待ってるってことは、元々から同行するつもりだったんだろう。
許可する」
僕はそう言って彼女の手を取った。
「ありがとうございます」
彼女はまた僕を見て、微笑んだ。
「参りましょう、御主人」
彼女は僕の手を引いて、ゆっくりと歩み始める。
「ああ」
僕はふと我に返って、彼女と並んで歩いた。
そして僕達は、その扉の前で立ち止まる。
「101号室。そこに何があるのか、それは誰もが知っている……」
標札を見上げ僕は、いつかどこかで書かれた小説の一節を思い浮かべ、唐突に怖くなった。
もしかしたら、本当にそうなのかも知れない。
「きっと、大丈夫ですよ」
彼女はそう言って、僕に微笑んだ。
そうだ、僕はここに戻ってきたじゃないか。
ここに帰ってくるのだと心に決めていたじゃないか。
「ありがとう、ヘレナ……」
僕は思い切って、いつもよりもずっと重くなった扉を開いた。
その部屋には、三つの人影があった。
僕をあの旅に追いやったあの双子と、そしてもう一人。
「タマミ……」
彼女は何本ものチューブに繋がれ、病床でうつ伏せになっていた。
痩せ細った彼女の背中からは、彼女自身の身長にも届くような翼が一対。
「やあ、タマミ……」
彼女はもう、僕の声でこちらを振り向く体力すら残されていない。
彼女に近づく僕を、双子は壁際で見守っていた。
「彼女は自らの亜人化を拒絶し続けた。
その結果、彼女は衰弱の一途を辿った」
「彼女は自分が人でいることを望んだ。
君がそう望んできたように」
僕は彼女に、人間としての生を強要し続けた。
僕のいない間にも、その呪縛がついに解かれることはなかった。
僕はそうやって、彼女を弄び続けてきた。
そして今尚も、僕は彼女に生を強要しようとしている。
本当に呪われるべきは、僕自身だ。
むしろ彼女が僕を呪ってくれたなら、僕はどれほど救われただろうか。
「……タマミ……」
僕は病床にもたれるように崩れ落ちた。
薄暗い病室の中、死んだような顔をした彼女は、相も変わらず言葉を発することはない。
「我々は最大限の手を尽くしてきた。しかし、見ての通り彼女は重態だ」
「このままの状態だと、彼女の命はあと数週間も保たないだろう」
彼女の肩甲骨辺りから切り立つように生えた一対の翼が、病衣を背中からはだけさせていた。
「君が手に入れた純人間化血清を投与すれば、彼女は人間となり、合法的且つ適切な治療を受けられるようになる」
「しかし、この血清には重大な副作用があった。
当分の間、実用化は難しいだろう。
それが何なのか、君はもうわかっている筈だ」
「ええ。
血清を投与した者の心は永遠に喪われる、
そうでしょう?」
二人は無言の肯定をした。
わかっているのならいい、そう言っているようだった。
二人は出口へと向かい、手提げ鞄から取り出したケースをヘレナに手渡す。
「血清投与の詳しい手順は、彼女に入力済みだ」
「我々は忙しい。先に帰らせて貰うよ」
そう言い残し、二人はこの場を去った。
牢獄のような骨組みが所々剥き出しになった病室。
俯く僕の目に入ったのは、羽だった。
周囲の床に散らばった羽の一つ一つが、彼女の苦痛を物語っていた。
僕はその羽を一つ手に取って、ようやく気がついた。
人間を人間たらしめるのは、苦しみなのだと。
僕はその人間というものを愛していたのだと。
彼女は人間なのだと。
俯く僕の視界が歪み、温かい涙が頬を伝う。
僕の口からは、嗚咽にも似た滑稽な声が漏れ出した。
僕は、泣いていた。
僕とヘレナは、病室の端から持ってきた椅子を病床の横に並べ、座った。
「私、タマミさんに初めてお会いしました」
彼女は、体の割に大きなケースを抱えている。
「ああ、そうだったな」
「何というか、似ていらっしゃるんですね」
「似ている……?」
見ると、彼女は無邪気に微笑んでいた。
「似ているんですよ。
御主人にそっくりです」
……似ている……?
「お、おおう……」
僕の中に、突然の気恥ずかしさが差したようにも思えた。
「……どうだ、いい女だろう?」
照れ隠しも兼ねて、少し茶化してみる。
「はい。とても」
「そうだろう……」
何故だろう、タマミについての話ができることが、少しだけ、嬉しく感じた。
「タマミはな、何だかんだと言い合いをしながらも、ずっと僕の側にいてくれたんだ。
それでな、彼女は…………______」
一度口から吐き出してみれば、話したいことが一斉に溢れ出してきた。
ヘレナの相槌や頷きが、高度なプログラムによるものだと知りつつも、僕はとても心地良く話をすることができた。
そして気がついた時にはまた、僕の目に涙が溢れていた。
今迄にずっと抑えてきた感情が、今更になって押し寄せて来たような、そんな不思議な感覚だった。
僕は一体いつから、こんなに涙脆い人間になったのだろうか。
「……やっぱり、そっくりでした」
僕の話が途切れたところで、ヘレナはそう言った。
この時のこの状況になって、タマミについてのことを聞くのは残酷にも感じた。
しかし何故か、僕は嬉しかった。
「……なあ、ヘレナ」
「何でしょう?」
彼女はこちらを向いて、軽く首を傾げた。
「ようやく、解った気がするんだ。
心のない人間と心のある亜人が何故結ばれたのか。
心のある人間が何故生まれたのか」
「心のない私には難しい話です」
きっと今の僕は、晴れ晴れとした顔をしているのだろう。
「それに、心ってのはそんなに崇高な物なんかじゃないんだ。
でも、僕にとっては大切なものだった」
「そうですか……」
彼女の微笑みは少し陰っていた。
そして、しばしの静寂があった。
「ヘレナ、一つお願いがある」
「何でしょう?
何なりとお申し付け下さい」
彼女はまた、無邪気な笑顔を作った。
僕は少し息を整え、言った。
「タマミと一緒に、僕にも血清を打って欲しいんだ」
すると彼女は、ほんの一瞬だけ、ためらいを見せた。
そんな気がした。
「……そうですか。
承知しました」
「ありがとう……」
僕は、可能な限りの嬉しそうな顔を彼女に向けた。
「当然のことですよ」
すると、彼女は僕に微笑み返した。
「…………御主人、本当によろしいのですか?」
ヘレナは、ケースから血清投与の器具を取り出し、組み立ててゆく。
彼女らの計らいであろうか、ケースには二人分の器具が入っていた。
「ああ。頼む」
「私はもっと、貴方の心について知りたかったんですがね」
「心配するなよ。
自分の心のことを忘れやしないさ。
あとでじっくり話してやろう」
僕がそう言うと、彼女は僅かに表情を曇らせたのがおかしかった。
「ヘレナ……」
僕は彼女の頭を軽くぽんぽんと叩く。
「ありがとうな」
「いえ」
そして、全ての準備が整った。
二人は注射器具を腕に固定し、僕はタマミの手を握った。
「約束ですよ?」
ヘレナが言った。
「ああ。約束だ」
僕は答えた。
「それでは、血清を投与します。
少し針の痛みがありますが、我慢して下さいね。
5秒前……4……3……2……1……」
時よとまれ、
お前は美しい。
気がつくと、僕はまたあの夢の空間にいた。
純白の空、地平線にまで広がった広大な屍の海。
僕と天使は、そこで手を繋いでいた。
やがて、遠くの屍達の肉体が崩れ、下方の底なしの空間へと落ちてゆく。
僕の心の海が、崩れ落ちてゆく。
やがて僕自身の足場も崩れ落ちようとしたその時、繋いだ手に引かれ僕の身体はふわりと浮かび上がった。
天使はその羽根を羽ばたかせ、僕を上へ上へと導いてゆく。
全ての屍が消え去り、二人は純白に包まれた。
いつか、闇の存在しない所で……。
______
この日の彼の朝は早かった。
彼は携帯端末に内蔵のアラームを止め、その手で新着の電信を確認する。
通知は無い。
彼はむくりと起き上がり、窓を覗く。
登り始めた人工太陽にビル群が優しく照らされていた。
彼は寒そうにしながらベッドを出る。
台所のコーヒーメーカーのスイッチを入れ、その足で洗面所へと向かう。
鏡に映る彼の顔は気だるそうで、どこか侘しさを漂わせていた。
歯磨きを終えた洗面所で、彼はうパジャマのボタンを一つ一つ外す。
肌を晒した手脚は、どことなく弱々しかった。色も白く、まるで病人のようだ。
ざっとシャワーを浴び、ハンガーケースから適当な服を見繕う。
彼はコーヒーだけの朝食を済ませ、鞄を持った。
玄関で、履いた靴をつま先でトントンと床を打ち、家の鍵を握りながらドアノブに手を掛ける。
「いってきます」
「行ってらっしゃい……」
「行ってらっしゃいませ……」
寝ぼけた返事が二つ。
ドアを閉じ、鍵を掛ける音があって、二人が動き出す音がした。
〈The End〉