シェアワールド~√劇場の裏~

複数の作者が共通の世界観で紡ぐ物語やイラストの集まり。様々な要素が重なり合い、並行世界は形作られている。

亜人行録Ⅲ

僕には夢がなかった。
「貴方は何が望みなの……?」
タマミは震える声で僕に問いかけた。
僕には紡ぐ言葉がなかった。
「私……、貴方の望む通りになろうと頑張ったんだよ?
たとえ、どんなに小さな事でも努力してきたんだよ……?」
彼女は怒りに全身を震わせていた。
「でも私、何にもできなかった。
何にも、何にも……。
私、こんなに頑張ったのに……」
僕は声が出なかった。必死で喉から言葉を絞りだそうとしても、出るのは微かな呻き声だけだった。
彼女は涙で潤む瞳で僕を睨んだ。
「これ以上私に何を望むの?
私を死ぬまで苦しめること?
私の心を徹底的にいたぶること……?」
彼女の目から頬を伝い、涙がこぼれ落ちた。

 


「……何なの?
人を縛り付けて苦しめるのが大好きな極悪人の癖に、いい人振らないでよ‼︎
気持ち悪いのよ……‼︎」
彼女の声には嗚咽が混じっていた。
「お願い、もうやめて。
お願い……」
僕は彼女に手を伸ばそうとした。
しかし僕の腕は微動だにしなかった。
……お願いだ、彼女を……、
タマミを、救い出してくれ。

 

______

 

僕は、見知らぬソファーの上で目覚めた。
軋む身体が、ここが物理現実である事を伝えている。
……あの夢だ。
あの後のことだ、彼女の背に翼が生え始めたのは。
彼女が亜人だと発覚し、世界中の誰もが彼女を裏切った。
それでも尚僕は、彼女を生に縛り続けた。
僕は彼女を苦しめ続けた。
そして今も、僕は彼女をこの世という地獄に閉じ込め続けている。
僕は吐き気がした。
しかし僕の中には、吐き出す物がなかった。
僕は起き上がり、周囲を見回した。
中東を思わせる部屋。異国風な壺が並ぶ。
部屋の一角に置かれたベッドに臥しているヘレナを見て、僕は完全に意識が戻った。
「……ヘレナ‼︎」
僕は身体の痛みをものともせず、彼女に駆け寄る。
彼女の身体の至る所に、最低限の応急処置が為されていた。
「……ぐぁ……っ‼︎」
思い出したかのように、強烈な痛みが僕を襲う。
そして僕は、自分にも包帯が巻かれていることにようやく気づいた。
「お目覚めか?」
突然、背後で誰かの声がした。振り向くと、マントの男が立っていた。頭部に巻かれたクーフィーヤが彼の顔を覆い隠している。
「……貴方は……?」
僕の口からようやく出た言葉はそれだけだった。
「我が名はシェク。
女は無事だ。安心しろクグイよ」
「どうして僕の名を……⁉︎」
「君は我々の間では有名だ。情報屋ならば尚更知らない筈がない。
たった一人の亜人の為に一国を敵に回した男、そうだろう?」
彼は顔の覆いを避ける。
中から覗いたのは、ネズミの顔だった。
「……亜人……」
僕はしばらくの間、彼の顔から目が離せなかった。
「貴方であってもこの顔に驚くか。
まあ無理もあるまい。
私の顔が醜く見えるだろう。
人間というものはいつだってそうだった」
彼は少し目を暗くして、僕の向かいの椅子に座る。
「醜いと思うということは、理解がないということだ。
貴方達は、我々の事をただ知らないだけなのだ」
そうだった。
僕はタマミのことを思い出す。
僕はタマミの夢を、タマミの願いを、望みを、苦しみを、全くわかってあげることが出来なかった。
タマミには醜い翼が生えていた。
タマミは美しい女の姿で、僕を騙し続けてきた。
でも本当は、タマミは亜人だった。
でも僕は、タマミのことを上っ面の美醜で愛していたわけじゃない。
断じて違う。
彼女は天使だ。
彼女は……、天使なんだ。
「……それでは、お教えいただけませんか。
貴方達のお話を」
すると彼は暗い目のままで穏やかに微笑んでから、開きっぱなしにしてある扉に向かって何やらよくわからない言語で声を上げる。
『おい、マウゼリンクス。
大事な客だ。お持て成しを』
翻訳機能を通すと、だいたいそんな意味内容であることがわかった。
彼の言い振りから察するに、彼の奥方といったところだろうか。仄かな香辛料の香りと共に、扉の向こうの部屋から、女性の返事が返ってきた。

「我々もかつては、人間社会に擬態していた時代があった」
僕と、あの後に目覚めたヘレナ、亜人の夫妻であるシェクとマウゼリンクスの四人が囲む食卓に、温かいコーヒーと干したデーツが並ぶ。
実にシンプルな組み合わせではあるが、ここいらの地域ではこれが正統な温かいお持て成しであるそうだ。
僕には何ら不満もなく、寧ろ刺激的な異国文化にワクワクしていた。
シェクはカップに少し口を付ける。
「我々はあの頃、当たり前のように、心の底から、自分のことを人間であると思いながら生きてきた。
代々そう演じてきたのだ。
我々は人間を演じれば演じる程、自分が人間なのかも知れないという錯覚が積もっていった」
彼はコーヒーカップを置き、指を組んだ。
「しかし、我々と人間には決定的な違いがあった。
我々がどれだけ精巧に擬態しようとも、我々と人間はわかり合えなかったのだ。
我々の化けの皮が一片でも剥がれたが最後、人間は我々を迫害した」
彼の話に、人間である僕は胸が痛くなった。コーヒーカップを持ちながら、僕はゲルニカでの出来事を思い返す。
彼は指を組んだまま、沈んだ僕の顔を見た。
「人間は傲慢だ。
人間は自分達のことを、神の似姿だと、霊長だと、信じてやまなかったのだ。
そんなとき、一人の英雄が立ち上がった」
「英雄……マレス=サルトゥオーモ、ですね……」
僕の言葉に、彼は小さく頷いた。
「彼は、一緒に闘おうと言った。
彼は、自分が人間であるにも拘らず、我々に手を差し伸べた。
彼は英雄だった。
しかし彼は、誰かの手によって殺されてしまった。
考えるまでもない、亜人に権利を与えたがらない人間の連中の仕業だろう。
だが、彼の魂は生き続ける。
我々が彼を語り継ぐ限り。
彼は、永遠に……英雄なのだ」
彼は手に摘んだデーツを見ながら、僕に問い掛けた。
「彼、マレスの弟、ルドヴィコについてはご存知かね?」
「え、い……いえ……」
僕は突然の質問に驚いて、反射的な返答をしてしまった。
実を言うと、僕はR.U.R.で言語野について調べていた際に、ルドヴィコ=サルトゥオーモの名前を見たことがある。
「彼は、とある研究を行っていた。
亜人を人間にする研究だそうだ」
「……な……⁉︎」
僕は思わず目を見開いた。
「しかし彼はわかっていない。
亜人が人間に劣るものだという迷信に憑かれているのだろう。
我々がどうして人間になりたいと思うだろうか……?」
僕はタマミを思い浮かべた。
僕は彼女に人間になって欲しかった。
彼はそんな僕の顔を見て、小さく溜息を吐く。
「我々は貴方達のように、下らない思い悩みなどしない。
我々は、お互いを純粋に愛することを知っている。
その愛に、一切の邪念は存在しない。
愛とは、本能のようなものだ。
どの動植物にも、亜人にも、もちろん人間にだって、その崇高なプログラムが働いている」
彼はまるで造物主を仰ぐかのように、天井を見上げたかと思うと、再び哀しげな顔をした。
「しかし人間には邪念が溢れている。
貴方達はその邪念に塗れ、純粋な愛というものを見失ってしまった」
そこで彼は、僕の目を見た。
「貴方はどうだ?
彼女のことを、一切の邪念を持たずに、愛することが出来たのかね?」
彼の目線が、僕に刺さり続ける。
何故僕の心を疑う……?
次第に僕は、どこか苛立ちを感じ始めていた。
「それとも、彼女が化けた偽りの容姿に欲情していただけなのかね?」
僕は苛立ちに耐えきれなくなっていた。いつの間にか僕は、痛いほど手を握りしめていた。
「違う‼︎
僕は外見の良し悪しで彼女を愛したわけじゃない……‼︎」
「では貴方は何故に、彼女を人間にしようとするのか?」
僕はただ、彼女が人間になって欲しかった。
だったら、人間って何だ?
僕は、次の口を繋ぐことが出来なかった。
咀嚼の音だけが部屋を満たす。
しばらくして、彼が口を開いた。
「返事を急ぐことはない。
冷めないうちに飲みたまえ」
僕はその瞬間に見た、彼の失望に翳った顔が以後忘れられなくなった。

 

「亜人である彼女を人間にするということが、貴方の真の望みだというのならば我々は止めはしない。
生けとし生けるものは皆神に与えられた責務があるからだ。
君のその責務が何であるのか、我々はまだ知らない。
だが全ては必ず、神へと帰するということを覚えておくと良いだろう」
「ありがとうございます。
シェクさん、マウゼリンクスさん……」
僕とヘレナは深々をお礼をして、一晩泊めて頂いた家を出た。
ヤシの木と石造りの民家が建ち並ぶ通りには、ネズミを中心に数多くの種類の亜人が行き来している。そのことが僕には衝撃だった。
何故ならば、地方で歩いている亜人が見つかり次第、すぐさま連行或いはその場で殺処分というのが今までは当たり前だったからだ。
ここは亜人の街だ。
時折吹き荒れる砂が目に入りそうになる。ヘレナはすぐさま僕の目を覗き込みに寄ってきた。
「御主人、大丈夫ですか?」
「いや何、気にするな」
こういうヘレナの動きはやっぱりロボットのそれだ、そう思うと行動パターンを組んだ自分が少し悔しくなった。
通りを歩いている亜人達の方が、よっぽど人間らしかったからだ。
僕はまた俯きそうになる気分を払いのけるために、今すべき事を考えた。
ルドヴィコはウコーリの首都トッドゥスツールにいる、トッドゥスツールには鉄道の直行便K–64を使うといい、シェクはそう言った。
この調査行の本来の目的は、電子結界内で行われているとある実験の調査。
僕は首都へと向かい、その真相を調査する必要がある。
「行こう、ヘレナ……」
「はい」
僕に微笑みかける彼女は、やはり何かが欠けていた。

首都への直行便K–64は、今となってはお目にかかれない蒸気機関車だ。
もちろん武装などは一切付いていない、恐ろしく無用心で、恐ろしく古めかしい車両だった。
結界内においても、蒸気機関車は時代の遺物らしく、維持費のためなのか乗車料は予想以上に高くついた。
僕達はシェク夫妻に、トメニアの通貨とウコーリでの通貨を、半ば譲り受けるように交換して貰っていた。
僕は彼らの優しさに頭が上がらなかった。
歪んだ合理化が進んだ日本やトメニアでは、こんな優しさを味わった事がなかった。
僕はあの優しさに対して、何をすればいいのかがわからなかった。
思わず視界が潤む。
車窓を覗くと、そこには岩砂漠が広がっていた。
僕は、電子結界は地平線の向こうに消えてしまっていることに気がつく。
電子結界。
現代の現実拡張技術では最先端の領域で、たとえ理論上であっても、実現が可能であるかも疑わしい物だった筈だ。
だが、現にそれは実現していた。
あれは紛れもなく電子結界だった。
…………待て。
あれは電子的な存在だ。
あの結界は何故、物理的な性質を持っているんだ……。
何なんだろう、この違和感は。
僕は何かに気がついてしまったのかも知れない。
僕はふと、携帯端末で現在の時刻を表示する。
2084年。
そうだ、今は2084年の筈だ。
……待て、何なんだ、何なんだ……この違和感は……。
2035年に何かがあった。
ネット上に飛び交う憶測の中で最も有力なのは、第三次世界大戦だ。
第三次世界大戦。
人類史上最大の惨劇が起きた。
世界各国の首都の殆どが焦土と化した。
トメニアでは旧ベルリンが、
バクテリアでは旧ローマが、
ユーラシアでは旧モスクワが、
オセアニアでは旧ワシントンが……。
深刻な汚染によって地上を失った人類は、これまでの都を棄て、新たな世界を地下に求めた。
しかし地下には亜人という先住民がいた。
数々のテロや紛争。亜人の妨害に耐えながら、人類は遂にジオフロントの建造に至った。
……待て。
主なジオフロントが建造されたのはマルセイユ、ミラノ、レニングラード、ニューヨーク……。
確かに、戦前に人口が多かったという都市ではある。
だが何故、旧首都の地下にはジオフロントが未だに造られていないんだ。
汚染の危険性が高いからなのか。
首都圏のみでの戦争だったのならば、何故世界中の人間が地下へと移住したんだ。
全世界に同様に汚染が及んでいたのならば、各国政府の主要機関が集まる首都圏のみの地下開発が行われない筈がない。
……わからない……。
余りにも情報が少な過ぎる。
きっと思い過ごしだ。
そうに決まっている……。
僕は、自分の馬鹿馬鹿しい妄想から離れようとした。
だが、現代の技術で、たった約50年の歳月で、世界大戦、戦後処理、戦後復興、数々の紛争、地下開発、都市建造、その全てが行われることが可能だと言えるのか。
もしも大戦があったとして、焼け跡となった地上で、その建造費用は、資材は、どこから出てきたんだ?
未だに戦後の闇という混乱が足跡を残すこの時代に、世界中にできたこのジオフロントはたとえ50年が掛かっても建造が不可能ではないのか。
何かがおかしい。
この世界に対する違和感。
何かが……おかしい……。
「御主人」
僕ははっとした。
「顔色が悪いですよ……?」
「え……ああ、大丈夫だ……。
ちょっと外の風に当たろうかな」
「そうですね」
ヘレナはそう言って、車窓を開く。
窓の外にはもう砂漠の面影はなく夕日に照らされたビル群が見えた。
「じきに首都に到着しますね」
「ああ……」
僕はビルとビルの間に落ちてゆく人口太陽を見ていた。

『本日はウコーリ鉄道K–64をご利用戴き、誠にありがとうございました。
当列車はまもなくトッドゥスツール、トッドゥスツールに到着します。
皆様、お忘れ物の御座いませんようご注意下さい……』
トッドゥスツール、亜人の都。
僕達は荷物をまとめ、停車を待った。
やがてK–64はプラットホームに到着する。
無事に降車した僕達は人混みの流れに従って改札口を抜けた数秒後のことだ。
「待って」
ヘレナが僕の肩をきつく掴んだ。
僕は彼女に振り返る。彼女の顔は少し強張った顔をしていた。
「……何だ……?」
「嫌な感じがする」
彼女は周囲を見渡す。僕は焦りを感じた。
……嫌な感じがする。
僕達は手を繋ぎ、その「嫌な感じ」の正体を避けようと、できる限り人混みの中を抜けるようにした。
僕達は人混みに流れ、駅中央に設けられた広場のような空間に出る。
人の流れは、この広場から東西南北の方向に分岐していった。
人口密度が一気に下がったのだ。
「……御主人!」
彼女は僕の身体を、通常の人間ではあり得ない力で引き戻した。
「…………っ⁉︎」
突然のことでバランスが崩れた僕は、彼女のちょうど背後で尻餅をついてしまう。
僕には、彼女の構えから戦闘態勢に入ったということを理解した。
気がつくと、周囲の人々の殆どがいなくなっている。
……まずい。
何かが来る。
「お会い出来て嬉しいよ、お客さん」
ちょうど向かいの通路から、カソックを纏う男が現れた。
僕はカソックの袖や襟から覗く肌を見てゾッとした。
「岩の……亜人……⁉︎」
「俺の名はジュリアーノ。
ジュリアーノ=マラパルマだ」
彼は僕を、嘲るように見つめる。
「抵抗しても無駄だよ、マサト君?」
「な……⁉︎」
岩の神父の背後から、黒服の男達が現れる。
それだけじゃない。東西南北のどの方面からも、僕達の背後からも、大量の男達が近づいてきた。
そして、その黒服の男達の全員が、屈強な亜人だった。
…………どうする……、
どうする……。
黒服の亜人達は、僕達を取り囲む。
「聞く話によれば、君はルドヴィコを探しているそうじゃないか?」
「何故その事を……⁉︎」
「俺は数多くの情報屋を抱えていてね」
「……まさか……」
僕の顔はきっと青ざめていたに違いない。彼は僕の顔を見ると、ますます楽しそうな顔をした。
「……ふーむ、その人形は邪魔だな。捕らえろ」
「……ヘレナ‼︎」
先陣が彼女に一斉に飛びかかる。
彼女は男達の闇雲は拳を避けつつ、背後の男二人に肘打ちを喰らわす。
思わず身を丸める僕の頭上すれすれを彼女の脚が掠める。
痛みに腰を屈める男の肩を支点に、彼女は回し蹴りで周囲を一掃したのだ。
蹴り飛ばされた男達は瞬時に体勢を立て直し、彼女の前方と背後、続いて右側と左側というように、間逆の方向から殴りかかる。
彼女は男達の拳の位置を正確に見切り、全方向に接近して来たところを見計らって間近にいる一人の脚を蹴り崩し掴み、倒れこむ勢いを利用して男の身体を回転し振り回す。
回転する男は次々と周囲の敵を打ち飛ばす。数秒間男を振り回したところで、彼女は男を敵の群れに投げ飛ばす。
敵が多過ぎる。
先陣を片付けたかと思えば、直後には後方の男達が接近している。
彼女は接近してきた男の胸を真横に蹴り、それを踏み台にして瞬時に方向を転換する。
その瞬間の事だ。
「御主人……‼︎」
「ぐ……⁉︎」
僕の間近で彼女のしなやかな身体が繰り出す攻撃に呆気に取られていた僕は、背後の男に襟元を掴まれ、男達に捉えられてしまった。
「…………っ」
僕を捕らえる手を振り払おうと力を絞り出しても、男の力には及ばなかった。
それでも尚容赦なく繰り出される男達の攻撃に対し、彼女は最善の技を正確に選んで対処してゆく。
僕はその情景を見て、ヘレナがやはり人間ではないという事を再確認した。
「……ふー」
部下達が倒されてゆく様を遠くから観るマラパルマは、岩の顔を顰めて溜息をつく。
「仕方あるまい、そのひ弱な男を多少傷付けても構わん」
岩の神父のその言葉があった直後、僕は腹部を蹴り上げられる。
「が……っは……‼︎」
腹部の銃痕が焼けつく痛みを訴える。
思わず右横腹を抑える僕は首を掴まれ、軽々と地面に叩きつけられた。
首が床に押さえつけられた僕は、徐々に息が出来なくなってゆく。
「御主人‼︎」
彼女は僕に近付こうとするも、数多の男達に遮られてしまう。
次々と男達を倒してゆく彼女は、その正確な動きとは裏腹に、声と表情だけが焦りを帯びる。
そんな中、僕は首が締め付けられ、徐々に意識が遠のいてゆく。
……どうする。
…………どうすればいい。
聞こえなくなってゆく彼女の声。
駄目だ、どうにかしなきゃ……。
諦めるな……。
「御主人‼︎」
部下達を力づくで退けてヘレナが僕に駆け寄ろうとしたその瞬間、岩の神父が、見えない速度で前に出て彼女を殴り飛ばした。
薄れゆく視界の中で、壁にぶち当たった彼女はその場で倒れ込む。
「全く、役に立たん部下を持つと手が焼ける……」
人形のように崩れ落ちる彼女を見て、僕の背に悪寒が走った。
「大人しくしていれば、これ以上君や彼女を傷付けないぞマサト君?
抵抗は無駄だ」
彼はそう言いながらも、明らかに狂気を帯びている。
起き上がらない彼女を見ると、岩の男に対する怒りがこみ上げてきた。
彼は僕の顔を見て楽しそうに笑う。
……息が出来ない。
この絶望的な現実から逃避するかのように、僕の意識は飛んだ。

 

目が覚める。
僕は半開きの目で周囲を見回す。
ここは薄暗い部屋。
扉が一つあるだけで、あとは窓一つもない殺風景な部屋。
その代わりにあるのは、鎖に繋がれた僕の腕、力なく垂れ下がる僕の両脚。
「…………ッ‼︎‼︎」
まどろみで迂闊に身体を捩り、引き伸ばされた傷口に激痛が走る。
僕はその痛みで半ば強制的に目が覚めた。
どうやら僕は捉えられてしまったようだ。
手脚を繋ぐ鎖は、傷の痛みも相まって、僕の身動きを完全に封じていた。
繋がれた腕は、僕自身の自重に圧迫され、痺れて感覚がない。
ここは何処だ。
光の届かない場所、ここは地の底なのだろうか。
ここは地獄なのか。
僕は死んだのか。
全身を走る痛みが、僕はまだ死んでいないということを訴え続けている。
僕はまだ死んでいない。
僕は。
…………そうだ、ヘレナは……。
「ヘレナ……」
彼女の名前が、思わず口から零れ出す。
『ようやく目覚めたようだな』
どこからともなく反響し始める鉄のような声に、僕の血の気が引いた。
「……誰だ……⁉︎」
『彼女はまだ生きているよ。
君に会わせてあげよう』
「……ヘレナは、生きて……」
僕は鉄の声の「まだ」という言葉に嫌な予感を募らせた。
『準備をしていてね、少し待っていて貰おう』
「準備……?」
僕が聞き返すも、返事は返らない。
静寂。
鎖で床に垂れ下がる僕は、何も出来なかった。
それから数分だろうか、数時間だろうか。
薄暗いこの部屋は、僕から時間の概念を奪っていった。
ただ茫然と、僕は待った。
もう疲れたのかも知れない。
動けないのならば、ひたすら待ち続けるのもいいのかも知れない。
もう嫌だった。
これ以上僕が、僕の大切な人が、傷付いてゆくのを見るのが耐えられなかった。
そして、永遠に近い時間の後に、遂に扉越しの物音が僕に伝わる。
僕は顔を上げて、扉を見た。
もう、嫌だ。
これ以上僕に何を望むんだ。
一層の事、扉の向こうの物を見ずに死んでしまう方がずっとマシなんじゃないだろうか。
鉄の軋む音を立て、重々しい扉は開いた。
担架に横たわる彼女は、亜人の男達に運ばれて来た。
その身には、岩の神父の拳の跡を除けば、傷一つなかった。上下する胸部や腹部が、彼女の呼吸が続いていることを示していた。
「……ヘレナ‼︎」
僕の目前の床に敷かれた担架。
彼女は生きている。
まだ生かされている。
僕は嫌な予感がした。
ただ嫌な予感がした。
「気分はどうかね、マサト君?」
扉からは数人の白衣の亜人達が何やら道具箱のような物を担ぎ込み、続いてかの岩の神父が姿を現わす。
生気を感じさせない無機質な岩肌が、この暗い部屋に馴染んでいた。
この男はゴーレムだ。
呪われた言葉によって動く、邪悪な岩の男なのだ。
こんな邪悪な男に「真実」という文字は似合わなかった。
僕はこの男に対して、恐怖や怒りを通り越した諦観のようなものを感じていた。
「ヘレナを……、どうするんですか?」
「それは君の反応次第だな」
「反応……」
もう嫌だ。
もうやめてくれ。
目の前で取り出されてゆく器具を見ればその内容はわかる。
手術道具のような物が、まるで豪勢な宮廷料理の食器のごとく整然と並べられてゆく。
……やめろ。
僕の口からは、その言葉さえ出なかった。

 


〈To be continued……〉